等号の左右は異なってる

a = b

と書くとき、その論理体系のなかでaとbという二つのものが等しいということを意味していると約束する。ここでaとbに全く同じものを置いてみたらどうだろう。たとえば、

15 = 15

みたいなふうに。

ここになんらかの意義を見出すことはできるだろうか。もし、15とかいて15が複数の対象を指し示すような記号だったなら、この表現は価値あるものになるかもしれない。しかし15が見た目から中身まで区別のつかない、まったく同じものを表現しているのだとすれば、これを二つ並べて等号で繋いでみても、それはまるで同じ言葉を繰り返しているみたいだ。理屈では全く正しいことを言っている。しかし、意義のある表現にはならない。

だからつまり、等号=の左右にはふつう違うものが並べられる。一見すると違うように見えるものをロジックを通して眺めたときに、それらが実は変わらないものだったのだなぁとわかることに、私たちは意義を感じられるのだと思う。

 

 

でも、どうして同じものが違うように見えてしまうんだろう。あるいは、どうして違うものが同じになってしまうことがあるんだろう。

物理や数学をやっていると、思いもしなかった異なる概念同士が、論理的な帰結や自然の観察を経て、方程式として両辺に並べられることがある。そういった式を学び理解した時は、パズルのピースが埋まるような、自分の世界に対する理解が捗ったような心地がして、ある種の快感を覚える。

論理は直感を超えた洞察をもたらす。そして、論理が導いた結論を通して、常識が拡大する。この自転車操業は繰り返されて、私の世界観、論理体系が広がっていく。これだから勉強はやめられない。