変な人

道を歩く。変な人に出会う。変な人とはどのような人を指しているのだろうか。

人間を一つの軸で測ることを考える。運動能力でも、社交性でも、潔癖さでも、何を食べるのかでもいい。人間を何らかの数字にして並べてみれば、たぶん真ん中あたりにたくさん人がいて、端の方には少ししかいない。

これらの数値が正規分布みたいに散らばっていると想像するのは悪くない近似だろう。そうすれば、平均から1標準偏差以内にいる人は68%くらいになる。一つの軸だけを見るなら、六、七割くらいの人を「普通」と呼んでも、それほど無理はなさそうだ。

一方で、人間にはいくらでも軸がある。走る速さ、勉強の得意さ、声の大きさ、好きな食べ物、潔癖さ、人と話すときの距離感、怒り方、笑い方、その人の癖。もちろん、こうしたものは互いに相関しているので、本当はなるべく独立な軸を選ばなければならない。それでも、人間を記述するのに必要な軸が一つや二つで済まないことは間違いない。

仮に独立な軸がN個あって、それぞれについて平均から1標準偏差以内にいる人を「普通」とする。すべての軸で普通である確率は、おおよそ0.7^Nになる。10個なら3%ほど。100個なら、3.2*10^-16。ほとんどゼロだ。考えてみれば当たり前なのかもしれない。ある人を十分たくさんの方向から眺めれば、どこかには必ず妙なところが出てくる。逆に、あらゆる方向から眺めても平均的な人間の方が、よほど異常なのではないか。

私は、身近にいる人ほど「この人は変な人だなぁ」と感じやすい。それは、その人に対する解像度が上がるからなのだと思う。十人十色とはよくいったもので、人間はだいたい変なやつなのだ。よく知れば知るほど、「ここが妙だ」という場所が見つかる。

電車の対面に座る誰かの顔は、ゲームのNPCよりも遥かに記憶に残らない。それは、そこにいる人が普通の人だからではない。極めて変なところを秘めているが、私の中での解像度が極めて低い人だからだ。目の前を歩く人の歩んできた圧倒的な人生の時間、その背景を想像するのは楽しい。

自分史

自分だけが知っている色々な質感があるじゃないですか。自分史というか。それは色々な場所に散らばっていて。写真フォルダや、いつかの文章、書き溜めたノート、脳内の記憶、部屋の中のもの、友人や家族の顔、誰にも見せたことのない自撮りとか、録音した歌とか、pcで作った音楽とか、ギターとか。あのときのあの人との演奏とか。

そういうのを自分だけが知っているのが勿体無いなと感じなくはない。ほとんどが堂々と人に見せられるものではないが、綺麗に見えるものもたくさんある。綺麗に見えるのはやっぱり自分の脳内の情報と結びついているのが大きいのだろうか。誰かの同じような、記録、経路、思い出をそっくり見せてもらったとして、どれくらい興味を持てるものだろう。

 

結構ナルシズムが強いのかもしれない。自分は自己嫌悪も感じる人間だし、健全なレベルだと思いたい。とにかく、人生の密度を濃くしたいな。あとで振り返ってまたあのときは面白いことをしていたと思えるようにしたい。

 

f:id:utatane_timeslip:20260816103512j:imageこちらは、今日購入したエフェクター。donnerという良心的価格のブランドのdelayペダル。delayとはやまびこのように入力した音が繰り返す機能を指している。綺麗な音が繰り返されると癒されるが、残響音を活かしたフレーズを思いつくのは非常に難しそうだなぁと感じた。むしろ使用感はノイズギター的な用途が向いているように感じた。

 

フィクションじみた世界

この世界はあまりにscience fictionじみている。小学生の頃に随分と驚いた記憶がある。身の回りは100年前には存在しなかったもので溢れていたから。ゲーム機も計算機も、携帯電話も冷蔵庫もテレビも100年前には存在していなかった。現代に至る電磁気文明の勃興が、仮に5000年前にあって、1000年前に電子計算機は発明されたんだよと伝えられたなら、もう少し腑に落ちたのだろうか?実際のところ、電気工学の発展はここら150年ぐらいの話だった。これは人間でいうとたかだか7,8現役世代程度の期間だ。MaxwellやBoltzmannの時代の研究者も系譜をたどれば、現役研究者の師の師の師の師くらいには届きかねない。現代科学の始まりまで遡ってみたとしても、ガリレオの世界は400年から500年ほど前だろうか。500年前、1526年の日本は戦国時代の真っ只中で、世界には、電磁気学は存在せず、蒸気機関もなく、細菌も原子も知られていかった。人は次の500年の期間で、月を歩き、遺伝子を読み、空を飛び、核分裂を制御し、ブラックホールを撮影し、ついには機械と自然言語で議論するための技術を開発した。これほどフィクションじみた世界をおかしいと思うのはおかしいことだろうか。

強制的介入の断行!

ダメな毎日が続いている。やるべきことが目に見えているのに手がつかない。目標も何も前進しないどころか、思考回路が錆びついていくような気がして、自分が世界から取り残されるのではないか、と怖くなる。こんなループは抜け出さなせればならない。

でも自力で抜き出せるなら、とっくに抜け出してるんだよなぁ。ある種の負のループが発生していて、それに捉われてしまっている。

 

こんなときには必要なことはなんだろう?基本方針は「強制的な介入を断行すること」だと思う。自然、気のままの自分に任せて行動を行うと抜け出せない可能性が高い。それは、行動の報酬系自体が負のループに与しているからだ。システムが自律的に動けば動くほど、システムの現在の内部変数が選ぶ準安定状態へ流れていってしまう。それが、じぶんにとって都合のいい「正のループ」なら放置すれば良いわけだが、「負のループ」なら願い下げだ。脱出を試みないと。

 

システムの状態を一気に変えるには、大きな擾乱を加えるか、従うルールを変更して仕舞えばいい。結果として、次の準安定状態が良いものかはわからないけれど。今日何かのルールを無理やり変える。いつもと違うことをする。いつもと違うものを食べる。いつもと違う道を歩く。

 

足掻かないと、怖いなぁ。前に進みたくないなぁ。助けて!と叫びたい気分。

 

ネタバラシについて

なんで可愛いんだろう、愛しいんだろう。切なくなってしまう。終わりが来るとかそんなことばっかりを考えた。ある日世界がネタバラシして、映画のエンディングみたいに、アニメのCパートみたいに。和やかで朗らかで。そしたら怒るけど許してしまうよ。みんなどうか行かないでほしい。全ての悲しいことは嘘だったと言って欲しい。でも嬉しいことは本当だったんだって。

俺たちは生きてるんだけど、どこか生きている実感はなくて、実のところ流れに身を任せているばかりで、周囲の有様を真似っこしていた。どんな願いでも叶うのならば、俺たちは何を願うのだろう。少しだけ起伏のある日常が終わりなく喜びに満ちてずっと続いたならなぁ。大切な人が一生健やかに笑っていたら。世界の誰とでも好きなように触れ合えたならば。ある日超能力が発現して、全知全能みたいになって、世界観が急に狭くなるんだって。機械はその言葉を話して、腕をただ動かしている。場面は次々に移り変わるけど、心の在処はかろうじて維持されていた。ぱっと雷鳴が轟いて、遠くの空から船が飛んでくる。なんだ、なんでもできたって乗り物は乗りたいものなんだなぁ。行く当てに興味はなかった。地獄か天国か、あのとき自分は嘘をついた。今でもずっと嘘をついている。本当は嘘なんてつけやしないのかもしれない。

「パース」を説明してみる

「パース」は遠景の景色を描写するとき重要になる概念・絵描きの技術だ。例えば、電車の絵を描くときのことを考えよう。車体は直方体のような形をしている。紙に電車の絵を起こすとき、頭の中に定義通りの直方体を思い浮かべて、車体の四隅を完全な平行線で描いたとしよう。多くの場合、違和感の強い絵が出来上がる。この気持ち悪さを解消するための処方箋が「パース」になる。車体の4隅の平行線を「遠方の一点」に向かって収斂していく、平行でない線を使って描けばよい。パースは鉄道写真を見るとわかりやすい。車体が遠方方向で一点に潰れている様子を見てとれる。

 

ここまでは常識や、直感として理解している人が多いと思う。では、なぜ「遠方の一点」に平行線が収束するように描かなければならないのか、きちんと言葉で説明できるだろうか?

私はこれがわからなかった。遠方の景色ほど、視界では小さくなることは経験として理解しているし、その大きさが距離の2乗に反比例することも知っていた。ただ、それがどうしてそうなるのか、正確な説明を試みると、若干の混乱があった。最近ようやく十分に納得できる説明を思いついたのでシェアしようと思う。

 

要点は、「カメラで映し出される映像は三次元のオブジェクトを二次元の球面に射影したものと同一視できる」ということに尽きる。カメラのレンズや人の目に入る光は、光線の入射方向だけで特徴づけられ、そこに奥行きの情報は一切ない。なので、カメラや目に対する荒いモデルとして、集光点を中心とする球面状の投影図があって(天体観測に使われる天球面の概念に近い)、球面を通過する光が球面上の通過点に射影されていると考える。つまり、このモデルでは、どれだけ離れた光源から光が飛んできたかという奥行きの情報を忘れ、どの立体角方向から光が飛んできたのかということだけを認識し、景色を構成する。基本的に光は直進するので(今は簡単のために回折などは考えない)、三次元の空間で視線方向に重複したオブジェクトは全て球面上の同一点に圧縮される。また、球面の中心点から見て距離がr離れた位置で垂直な面積がAのオブジェクトが単位立体角を占める大きさはA/r^2だ。これが視覚上で遠方の物体ほど距離の二乗に反比例してサイズが縮小して見える、または物に近づいたほど細部がよく見える理由だ。また、三次元空間上で平行な2本の直線は無限遠では「天球上の一点」に収斂しなければならない。なぜなら、平行線間の距離は視覚の近傍で有限だが、無限遠方向に向かって外挿していくと、三次元空間上での平行線間の距離は当然変わらないが、射影される球面上で1/rの割合で潰れていく(面積はrの二乗に反比例して、長さはrに反比例してつぶれる)。結局二本の平行線に沿った無限遠方を見やれば対応する二点は球面上の同一点に射影されてしまう。球面上の一点は視覚世界の一点そのものに対応している。だから平行線は必ず一点に向かって収束していかなければならない。

 

つまり、「パース」が再現するのは三次元の厳格な位置関係ではなく、私たちの目で見る景色であり、それは球面に入射光を射影した世界だ。

分身と相関

目の前にドッペルゲンガーが立っていた。私には彼の考えていることがわかるような気がした。何せ、行動がしばらく同じだったのだ。動き出す時間、立ち止まる時間、目線、発話のタイミングから言いかけた言葉まで。直感した。きっと、体の細部まで「模造」されているのだろう。どちらが本物なのかはわからなくなった。事実上見分けがつかない二つのものに順序をつけるのは困難だから。きっと彼の心のうちにも同様の反芻が渦巻いている。ともかく、私は部屋から移動することにした。とたん彼も同時に動き出す。目的は同じだ。私たちの体は物理法則の範疇にある。神経系や意識だって、例外はない。仮に、体の輪郭で覆われる内部の原子組成その初期速度までもが同じであったとしても、二人は同一点に重なって存在していない以上、周囲の環境が異なっている。だから、外界との相互作用を繰り返せば、たちまち私と彼の内部状態は分離しはじめる。二人の間には初期に強い相関がある。それは時間に対して指数的に減衰するだろう。ならば、その時定数は?

私は後ろを振り向いた。彼は私に手を振っている。私は彼が私に向かって手を振る動機を心の底から了解すると同時に、彼の考えていることは一才わからなかった。