瞬間で吹き飛ぶ人生

このあいだ電車に乗ろうと駅に向かったときに、なんだかホームがいつもよりもざわざわしていて、なんだろうとか思っていたら、そこにいる人がみんな首をなんとなく同じ方向に向けていることに気がついた。それで、自分もそっちの方に目をやってみて、ようやく事態が飲み込めた。どうやら電車に飛び込んだ人がいたようだ。駅を通過する特急の電車にホームから飛び出した人がいたのだ。自分が駅に到着するほんの数十秒前の出来事だった。

それを知ったそのとき最初に俺は何を考えた?ほかの人なら何を考えるのだろう。俺はその瞬間を直接目撃しなかったことを残念に思った。思ってしまった。そういう自分の気持ちをたしかに自覚した。きっとそういった現場に遭遇したことが初めてのことだったからだと思う。そこには好奇心があった。それを自覚してしまった。一人の人間が死ぬ瞬間。風船みたいに弾け飛んだんだろうか。それとも、引きずられて徐々にズタズタになったのか。

頭の中でその瞬間を、血とか肉とかが飛び散る様子を想像して、若干気分がわるくなった。体に強いストレスがかかるのを感じた。もう、さっきの気持ちは吹き飛んでそちらの方へ顔を向けることもできなくなってしまった。恐ろしい気持ちになった。不安な気持ちになった。瞬間を見たわけではないのに、気分が沈んだ。落ち込んだ。やや、吐きそうにもなった。人間は気分だけで体調を崩してしまうのだから不思議だ。

それから、飛び込んだ人が何を考えていたのか、どんな気分だったんだろうとかを全く勝手に想像した。実行を決心させるほどの何かがその人にはあったはずで。その人はその人の人生の時間を体験していて、その人にしか知らない背景があって。はたして飛び込んだ後に後悔はしなかったんだろうか。せめてその行動によって何かが報われていて欲しいと考えてしまう。飛び込んでから電車に轢かれるまでのごく僅かな、そして後戻りのできない時間の間にその実行は過ちだったと思って欲しくない。と思う。

 

 

 

頭の中の声

文字を読むとき、書こうとするとき、ロジックを慎重に手繰るとき、頭の中に声がある。思考とともに音がある、と錯覚している。その音は存在していないけれど、音声に伴うべき音の高さや音色まで、集中すれば聞こえるかもしれない。自分の普段出す声のようにも感じられるし、いざ実際に声を出して比べてみると違う声のような気もする。少なくとも女性の声ではなく男性の声で、多分自分の声に似ている。この輪郭のぼやけた隣人の正体は、自分自身であり、自分の意識の表れであって、それでいいのだろうとおもうけれど、、

頭の中の主観的な世界で自分はいつも自分でものを考えて自分で行動を選択していると思っている。けれど、動かそうと思って心臓を動かしてるわけではないんだ。心臓は勝手に動いているだけで。ほんとうはそれとみんな同じで、自分の意識も勝手に動いているはずだ。まさか、自分の心だけが世界から唯一切り離されて、独立に特別に動いているとは考えられない。ただ天体が運行するように、自分の心はただ動いている。世界のルールに則っている。自由意志なんて存在しない。ただ水が低い場所へ流れていくだけだ。そうだろう。きっとそうだ。けれどやっぱり一方で、自分は自分の意識が存在していて自分は自分の行動を選択をしているとおもっている。自分の頭の中の声はまるで自分の存在が超自然的で世界の理には縛られていないという顔をしている。だから、今日も私は私の行動を選択する。錯覚かもしれない。

等号の左右は異なってる

a = b

と書くとき、その論理体系のなかでaとbという二つのものが等しいということを意味していると約束する。ここでaとbに全く同じものを置いてみたらどうだろう。たとえば、

15 = 15

みたいなふうに。

ここになんらかの意義を見出すことはできるだろうか。もし、15とかいて15が複数の対象を指し示すような記号だったなら、この表現は価値あるものになるかもしれない。しかし15が見た目から中身まで区別のつかない、まったく同じものを表現しているのだとすれば、これを二つ並べて等号で繋いでみても、それはまるで同じ言葉を繰り返しているみたいだ。理屈では全く正しいことを言っている。しかし、意義のある表現にはならない。

だからつまり、等号=の左右にはふつう違うものが並べられる。一見すると違うように見えるものをロジックを通して眺めたときに、それらが実は変わらないものだったのだなぁとわかることに、私たちは意義を感じられるのだと思う。

 

 

でも、どうして同じものが違うように見えてしまうんだろう。あるいは、どうして違うものが同じになってしまうことがあるんだろう。

物理や数学をやっていると、思いもしなかった異なる概念同士が、論理的な帰結や自然の観察を経て、方程式として両辺に並べられることがある。そういった式を学び理解した時は、パズルのピースが埋まるような、自分の世界に対する理解が捗ったような心地がして、ある種の快感を覚える。

論理は直感を超えた洞察をもたらす。そして、論理が導いた結論を通して、常識が拡大する。この自転車操業は繰り返されて、私の世界観、論理体系が広がっていく。これだから勉強はやめられない。